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大蔵省は、系列ノンバンクを倒産させたうえで、H銀を清算させ、残る健全な債権と債務を民間金融機関などが出資するS銀行に譲渡し、S銀行として再生させるスキームを打ち出した。 一九九五年一0月三一日、H銀の受け皿となるS銀行、M銀行が設立された。
翌年の九六年一月二九日、H銀から営業譲渡を受け、M銀行は営業を開始した。 M銀行は、大蔵省が奉加帳を回し、銀行八三行、生損保一九社、証券一五社のほか、地元企業など四四九社に出資を仰いで、資本金七0九億円をやっと集めたが、目標額には少し足りなかった。
K商工会議所副会頭のYを頭取に迎え、兵庫・神戸という地元に根を張り、被災地の復興という役割と、自らももう一度、豊かな花を咲かせるという一石三鳥の任務を担うことになった。 語い文句は実に立派だったが、最初から多難な船出が予想された。
それから二年、M銀行は、あっけなく沈没した。 一九九八年五月、M銀行の経営が破綻した。

H銀から七二00億円の回収可能と認定された不良債権と、一七00億円の損失(営業権代として計上して、五年間で償却を実施)という負の遺産を引き継いだため、再び債務超過に陥ったのである。 少しくどくなるが、M銀行の不良債権の全容をはっきり書いておくことにする。
回収不能な債権が八一00億円。 回収不能債権の八一00億円は預金保険機構からの四七三0億円とH銀行の自己資本で穴埋めしたが、それでも一七00億円が損失として残った。
この一七00億円をいわゆるノレン代として計上(して損失として処理)するとともに、回収可能とされる不良債権七二00億円を、M銀行は引き継いだのである。 実にへんてこりんな言い方だが、あえてそのまま使うが、当局によって回収可能と認定された不良債権(これも不良債権というのだろうか)を抱かされた、M銀行は、その重荷に喘ぎながら坂を登ったのだろう。
預金保険機構からの資金援助は一兆円を超えた。 大蔵省主導のH銀処理のスーキムは完全に挫折した。
大蔵省のY銀行局長は、官製のH銀処理のスーキムが行き詰まったことについて、「阪神大震災後の地域経済の落ち込みもあって、債権の劣化が予想以上に進んだため」と苦しい弁明をした。 大蔵省から奉加帳を回され、渋々出資に応じた金融機関は不満を募らせた。
ある大手銀行の幹部は「なぜ不良債権をS銀行から分離して債権回収機構に移さなかったのか。 不良債権を背負っても、S銀行がやっていけると考えた大蔵省の見通しの甘さが、行き詰まりの本当の原因ではないのか」、吐き捨てるように言ったものだ。
結局、M銀行は経営破綻した。 一九九九年四月一日、同じ神戸市三宮に本拠を置く、第二地銀、H銀行が救済合併することになった。
合併してできた新しい銀行の名称は、M銀行だった。 さすがに、M銀行の失敗に懲りて、合併の際に、M銀行の不良債権を、M銀行は引き継がなかった。

預金保険機構はM銀行の不良資産を二六00億円で買い取り、整理回収機構に移し、損失の穴埋め分として七九00億円を贈与した。 M銀行は公的資金で債務超過を解消し、資本金は温存された。
だが、元官房長官のKが「公的資金を受け入れるからには、経営陣も株主も責任を取るべきだ」と主張し、「誰にも責任がないというのはどういうことなのか」と怒りを露にした。 何でKと言うなかれだ。
「金融システムの安定のために公的資金が必要だ」という議論は、H内閣の官房長{目だったKが最初に口火を切ったことから「K構想」と呼ばれた。 公的資金導入の言い出しっぺであるKは、今度もまた、無責任体制の下で、まず「公的資金ありき」の金融当局の姿勢が我慢ならなかったのかもしれない。
だから、M銀行への公的資金の注入に待ったをかけたのである。 M銀行の株主には、大震災の被災企業も少なくない。
神戸経済界は猛反発したが、M銀行発足後に発生した不良債権を処理するために、資本金のうちから二00億円が使われた。 死ぬ思いで(多少オーバーな表現だが、当事者はこんな気持ちだったと推察する)集めた、虎の子の資本金七0九億円のうちから二00億円が消えたわけだ。
責任を取って、頭取のYら役員が退陣したが、そんなことでは済まない大問題である。 M銀行とM銀行。
それぞれの頭取を務めたY、YAは、いずれもK銀行出身で、S銀行の幹部を務めた。 S銀行は、M銀行に対し一貫して距離を置いてきたが、S銀行との合併に合意してからは、その距離は縮まったように見えた。
二000年七月、S銀行が、T0B(株式公開買い付け)方式で、M銀行を連結子会社にした。 S銀行とS銀行の合併で、今度は、MS銀行の子会社になった。
H銀行は三代にわたり大蔵省0Bが社長・頭取に就任したため、H大蔵銀行Hと呼ばれていた。 だが、H大蔵銀行Hだって破綻した。
ズパリ原因は、不良債権に対する金融当局の認識の甘さにあった。 「金融当局でござる」などと言って威張ってみせても、命の次に大事な自分のお金を貸し出して銀行業務を営んだ経験はない。
そもそも高級官僚は自分の金を使ってビジネスをやったことがないのだ。 リスクを取ったことがない。

H銀倒産で、大蔵省の無能ぶりと無責任さがあぶり出された。 護送船団方式に慣れきっていた大蔵省は神通力を失い、H銀の消失は大蔵省解体に向かう、一里塚となった。
再編説が急浮上関西の金融界は再び、再編へ向かって動き出した。 二0一0年三月、第二地方銀行のKA銀行とB銀行が合併し、新「KA銀行」となった。
五月には、Iホールデイングス傘下のI銀行とK銀行が合併した。 M銀行の新たな対応が注目されるのは当然の成り行きである。
M銀行が同じMS銀行の子会社である新しいKA銀行に合流するのではないかとの観測が強まったのは当然の成り行きだった。 M銀行の資本金は二七四億円。
MS銀行が議決権株式の四四・九七%を保有していた(二00九年九月中間期)。 M銀行は国際的な自己資本規制の強化の動きを見据え、資本増強を図った。
一0年一月、MS銀行を引受先として、議決権を伴わない優先出資証券一00億円を発行。 中核的自己資本比率は0・六ポイント上昇し、六・二%になった。
M銀行の将来は、MSフィナンシヤルグループ(FG)が、どのような地域金融機関の戦略を描くかにかかっているといっても過言ではない。 M銀行は、Kアーバン銀行のように広域合併にすんなり持って行けない事情がある。

何故なら、M銀行は既に「県民銀行」的な役割を担わされているからだ。 兵庫県の「県民銀行」は、昭和初期の一県一行主義に沿って設立されたK銀行だった。
だが、本店機能が神戸にあったのは、T銀行と合併してできたTK銀行の時代まで。 一九九0年にM銀行と合併して、S銀行になると、本局は東京へ持っていかれてしまった。
やがて、S銀行と一緒になり、MS銀行に。 MSという旧財閥の名前はしっかり復活しても、「K」の名は完全に消えてしまった。
もはや、純粋な意味でのK銀行の復活はないだろう、と古くからの神戸の財界人は嘆いている。 県域をカバーする中核行(地域銀行)で、県庁所在地に本局がないのは、兵庫と愛知と鳥取の三県だけである。

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